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赤い星の墓標 (山崎雅弘 戦史ノート)

価格: ¥0
カテゴリ: Kindle版
ブランド: 六角堂出版
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1937年6月11日、朝9時からモスクワで非公開裁判が開かれた。裁判長ウリリフのほか、エゴーロフとブリュッヘル、ブジョンヌイの三元帥や、アルクスニス空軍司令官なども判事席に座っていた。

被告席に並んでいるのは、M・N・トハチェフスキー元帥をはじめ、I・E・ヤキール上級大将、I・P・ウボレーヴィチ上級大将、A・I・コルク大将、V・K・プートナ中将、V・M・プリマコフ中将、B・M・フェリドマン中将、そしてR・P・エイデマン中将。つまり、赤軍首脳部の中核を成す最も優秀な将軍たちだった。赤軍政治総本部(PUR)の元部長ヤン・ボリーソヴィチ・ガマルニクは、この裁判への協力を拒否して5月31日にピストルで自ら命を断っていた。

昼食後すぐに、あらかじめ用意されていた判決が下された。被告は弁明の機会すら用意されず、その日の夜に全員が、NKVDのルフォルトヴォ監獄で銃殺された。赤軍に対する粛清の嵐は、トハチェフスキー一派の銃殺でさらに勢いを増しはじめた。もはや自らの重さで坂道を転がり出したこの車輪は、トハチェフスキー裁判で判事席にいたはずのエゴーロフとブリュッヘル両元帥、Ya・I・アルクスニス大将、P・E・ドゥイベンコ中将、N・D・カシーリン中将などを次々と踏み潰した。

一連の粛清により、5人中3人の元帥が、4人中3人の上級大将が、12人中12人の大将が、67人中60人の中将が、199人中133人の少将が、397人中221人の准将が、10人中10人の海軍大将が、15人中9人の海軍中将が銃殺された。そして、このたった二年半後に独ソ戦が開始されたのである。なぜソ連の独裁者スターリンは、赤軍首脳部にこれほど壊滅的な打撃を与えたのか。トハチェフスキーらの赤軍高官たちは、当時何をしようとしていたのか。

本書は、1930年代後半にソ連赤軍内部で吹き荒れた大粛清の嵐と、その悲劇に至るまでのソ連国内およびフランスの亡命ロシア人社会の内情、そしてドイツ軍上層部の思惑を、コンパクトにまとめた記事です。1996年2月、国際通信社の雑誌『コマンドマガジン日本版』第7号(1996年2-3月号)の記事として、A4版8ページで発表されました。また、巻末には付録として1936年9月7日〜10日に実施された「白ロシア軍管区作戦・戦術大演習」の参加部隊と指揮官名の戦闘序列を収録しています。