ペルー人質救出作戦 (山崎雅弘 戦史ノート)
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日本政府のアキレス腱とも言うべき「危機管理能力」を大きく揺さぶる重大事件が、南米ペルーの首都リマで発生したのは、1996年12月17日のことだった。この日、リマ市サン・イシードロ区トーマス・アルバ・エジソン通り210番地にある日本大使公邸では、天皇誕生日(12月23日)を控えた祝賀レセプションが盛大に催されていた。
宴もたけなわとなった午後8時20分頃、公邸の敷地境界周辺で突然大きな爆発音が響き、続いて派手な彩色のスカーフで覆面をした14人の武装集団が、大使公邸の敷地内へと姿を見せた。そして、青木盛久駐ペルー大使と外務省職員のほか、ペルー政財界の有力者と各国外交官、現地の日本企業の重役など、約600人を人質に取ったまま、大使公邸を乗っ取った。
犯人グループのリーダーは、ネストル・セルパ・カルトリーニといい、ペルーの左翼過激派組織「ツパク・アマル革命運動(MRTA)」の創設メンバーの一人だった(ウェルタスは労働争議で警官に撃たれて死亡したセルパの親友の名)。大使公邸を占拠したMRTAのメンバーは、午後9時10分頃に現地のラジオ局からの電話に答える形で、当時のペルー大統領アルベルト・フジモリに向けた犯人側の要求項目を読み上げた。
「刑務所に収監されているMRTAのメンバー450人全員を即時釈放すること。公邸占拠グループと刑務所から解放されたメンバーが、合流した後にアマゾン川流域の密林地帯へ脱出することを承認すること。貧富の格差を増大させる現在の経済政策を見直すこと。そして人質の身代金を『戦争税』としてMRTAに支払うこと」
それは、ペルーおよび日本政府とMRTAの犯人グループとの間で、4か月間にわたって繰り広げられることになる長い攻防戦の始まりだった。
本書は、南米ペルーの首都リマで発生した日本大使公邸人質事件と、ペルー軍特殊部隊による救出作戦の経過を、コンパクトにまとめた記事です。2007年3月、学研パブリッシングの雑誌『歴史群像』第82号(2007年4月号)の記事として、B5版11ページで発表されました。同種の事件が発生するたびに問われる日本政府の危機管理および危機対応能力について、ペルー事件は今なお有益な示唆を数多く含んでいます。