熟議参加を求める開かれた社会空間を取り戻そう
★★★★★
著者は東京大学大学院情報学環学際情報学府・博士課程に在学中(二〇一〇年度現在)でマスメディアとジャーナリズムを研究中。本著は同大学での修士論文『新聞の脱構築と再構成−神奈川、鹿児島、滋賀の事例を中心に』(二〇〇六年一月提出)が基。マスコミの現場(共同通信社)に居ながらアカデミズムの門を叩いて、“新聞とは”“市民社会と新聞の役割”“各新聞の使命遂行”といったテーマを掲げながら、「鹿児島新報」(一九五九創刊、二〇〇四年廃刊)、「神奈川新聞」(二〇〇五年コミュニティサイト「カナロコ」開設)、「みんなの滋賀新聞」(二〇〇五年四月創刊、同年九月休刊)の三つの“周縁”新聞の動向を題材に、総じて『新聞再生』について問いかけます。日本の国民は、一般にその手近さから新聞やテレビを主たる生活情報源としつつ、一方民主主義的な意見交換や意思反映・形成の場をもたらす機会や機能(公共圏の捕捉)として活かす慣習は欠如。IT隆盛にあって近年の紙新聞衰退は明白ですが、その権威失墜論議(メディア産業論・技術論の観点から)に託けて、著者としては、社会における新聞の在り方そのものと、その再生は“言説の公開性と他者との共同性を担保する”「社会空間」の再生にある、として本質論を展開。一足先に新聞退潮を経験した米国が、一九九〇年から起こした「パブリックジャーナリズム」と呼ばれる社会運動の試み(寺島英弥著『シビック・ジャーナリズムの挑戦』を参考図書として紹介)は、住民の声をメディアを通じて反映させた取組みとして参考に。三つの事例の主人公たちの意識は、地元の生活向上への意欲、住民目線(高みからの視線脱却)、人々の言葉を繋ぐ社会空間創出、とまとめながら、小さなマスメディア多数の共存を受け入れ、“熟議”(今日、文部科学省が「熟議カケアイ」を実施)参加を求める開かれた社会空間としての“新聞”の場を回復してこそデモクラシーの苗床になるのだと訴えます。全面賛成。
読者のための新聞
★★★★☆
新聞は、将来に対する行き詰まり感にさいなまれている。速報ではネットに勝てない。専門性では雑誌、書籍に勝てない。迫力では動画に及ばない。そしてコスト削減には限界がある。
そんな中、アメリカの地方紙が「読者が政策の何に疑問を持っているか」を調査し、その疑問を解き明かすための取材、報道をした結果、選挙の投票率が上がったという興味深い例がこの本の中で紹介されていた。読者の視点からの新聞づくりをうまくシステム化できた例だろう。
地域の人々の疑問を知り、その実態を調べ、分かりやすく伝えること。動機づけ、取材、報道が読者と記者の間で循環することが、これからの新聞が生き残る道であり、地方紙の強みでもあるだろう。ネットでは無責任に過ぎ、一瞬の動画では表現できない。そして大手ではそこまで小回りが利かない。そのすき間に小さな新聞が入り込み、生き残る場所があるのではないか。
新聞にそんな夢を持たせてくれる労作だ。
〈新聞〉とは何かを考えさせてくれる好著
★★★★★
新聞業界の危機を説く産業論が多いなか、『新聞再生』は、ビジネスだけにとどまらない〈新聞〉本来が持っている社会的機能を思い起こさせてくれる点で、似たようなタイトルの本とは一線を画している。
中央のマスコミの議論の射程から外れている周縁で起きた地方紙の3つの事例は、どれも綿密に取材されている。それぞれの現場で携わる人々が、お題目のジャーナリズムではなく、地域の人たちとのコミュニティを志向する気持ちがよく伝わってきた。
事例からジャーナリズム研究の流れまでを扱う幅広い内容にもかかわらず、とても読みやすい。新聞に少しでも関心のある人は、だれでも興味深く読むことができるだろう。ぜひ一読をおすすめしたい。
カギが見当たらない
★★☆☆☆
斜陽産業とも称される新聞業界の「周縁」にいる(いた)3つの「弱小地方紙」の挑戦と挫折から、新聞再生の糸口を探る。「ラジカルな思考機会に恵まれる周縁のジャーナリストが、果敢に立ち上がり挑戦し続ける営為のなかに、新聞再生のカギを見つけられると信じる」という考えに基づいている。
廃刊に追い込まれた「鹿児島新報」とそのOBが作るHP、社内から不採算職場と指弾される「神奈川新聞」のHPカナロコ、創刊から半年で消えた「みんなの滋賀新聞」。著者は「産業論としてみれば3事例とも取るに足らない」と認める。
一方で著者は、新聞の淵源をたどり「他者に開かれた社会空間としての<新聞>」「デモクラシーの苗床としての<新聞>」の重要性を強調する。そして、そうした<新聞>を再生させるためには「観客となっているふつうの人々に参加を促すしかない」と説く。
果敢に市民・読者の中に分け入った3つの事例は「地域にこだわり、地域の人々とともにあろうとする思想」であり、まさに「ふつうの人々に参加を促す」実践例として紹介されている。
だが、読後に違和感が残った。なぜなら、3つの事例は商業・採算面で成り立たないだけでなく、「開かれた社会空間」としても市民・読者に支持されなかったからだ。最も分かりやすいのが、無料のカナロコ。にぎわったのは開設直後の数日だけで、現在のカナロコを覗き見ると、閑散ぶりがよく分かる。
やり方の問題なのかもしれない。しかし、少なくとも3つの事例から「ふつうの人々に参加を促すしかない」という説の確かさを認めることはできず、したがって「新聞再生のカギ」を見出すこともできなかった。
ビジネスではなく「営み」として新聞を再考
★★★★☆
序章を読んで「はっ」とした。今までどれほどの「新聞斜陽説」を読んだか知れないが、確かに「産業」としての新聞という意味合いに過ぎない。中央の大新聞人から「終焉論」が出る中、著者はそれらの議論に「『営み、表現としての新聞』の意味合いが込められてない」として、地方紙という『周縁』から本来の表現としての「新聞」の可能性を探った。
3本の事例が掲載されているが、「鹿児島新報」廃刊の瞬間から始まる。会社がつぶれたのに、記者たちは明るい。私がここ数年見た大手新聞記者たちの「もう新聞はだめだ」という嘆息とは対照的だ。ほかの事例研究もいずれも示唆に富む。半年で休刊に追い込まれた「みんなで作る滋賀新聞」について、著者以前に学問的調査を誰もしていなかったことに驚いた。県紙を立ち上げるという数十年ぶりのイベントですら注目を受けないほど新聞研究は流行らないということか、そして、記者クラブや、創刊間もない新聞の選挙報道を禁じる法の存在など、新陳代謝のないこの業界の硬直性を感じさせた。
今の新聞は「記者と読者」、「生産者と消費者」ときっちり線引きをしているが、本書の3事例はいずれも、その線引きを金の問題でやむにやまれず、かつ意図的に曖昧にすることで「共同体内の表現の場」であろうとした。それは、新聞の「新聞業」が極大化した現在、古くも新しい「新聞」像に立ち返ることが新聞が生き残る道なのかも知れない。新聞問題をウオッチする上で、頭に非常に新鮮な本だった。