実際に行うかどうかは別にして誰もが魅力を感じる怠惰な感情がリアル
★★★★☆
雑誌「ガロ」の話題では必ず紹介される、つげ義春の作品。
いくつかの独立した短編エピソードと
複数話から構成される「無能の人」が収録されている。
共通するのは主人公が堕落した生活を送っており、
きちんとした仕事に就くことなく、ダラダラと過ごしていることだ。
そういった男性に苦労している女性がよく登場するのも共通点のひとつ。
オチらしいオチがあることも少なく、人によっては何が面白いかわからないだろう。
しかし、その独特の雰囲気と妙に人間臭い部分は
妙な中毒性があるのも事実で、
実際に行うかどうかは別にして誰もが魅力を感じる怠惰な感情がリアル。
余計な予備知識はいらないので、つげ義春作品が初めてでも
この妙な雰囲気は十分に味わえる。
きみは無能の人を読んだか
★★★★★
きみは無能の人を読んだか。
つげ義春さん独自の無力感、世捨て人感、世間との乖離感
しかし誰もが心の隅にもっている感じをよく、
とらえていて、読む人の心を不安定にさせる傑作である。
現代の方丈記ではないのか。
映画化され 文庫化される カルト漫画
★★★★★
「最近の若い人は漫画しか読まない」と 昔よく言われたものだ。携帯電話の進化と普及で最近は電車の中でも漫画すら読まなくなってきたのではないかと思うこのごろだが これも年をとってきたせいかもしれない。
その「漫画」というジャンルを考えるにあたり つげ義春の作品をどこに位置づけるのかは極めて難しい気がする。僕も つげの漫画を読むにあたって 「マンガを読んでいる」という意識はほとんどないからだ。正直に言うと「小説を読んでいる」という感覚が近い気がしている。
勿論 その感覚は 「絵描き」としてのつげの芸術を否定するものではない。つげの書く絵は非常にユニークであり まず その絵から醸し出される雰囲気は 彼の作品を支配していることは確かだ。実際「無能の人」を活字の小説で読んでも 相当面白いと思うが つげの絵がないことには 決定的に成立しないに決まっているからだ。カルトといえば カルトだ。
それにしても こういう漫画家を擁した日本のコミック文化は 相当の奥行があると思う。「無能の人」が 映画化され 文庫化される文化は お世辞抜きに大したものだと思う。
漫画で表現した私小説〜諦観溢れる作品
★★★★★
まさに「漫画で表現した私小説」と言える作品。前半の「日の戯れ」等には仄かな夫婦愛が感じられるが、「無能の人」は諦観そのものと言って良い。
特に「石を売る」には驚いた。主人公は川原の石を拾って"孤舟"、"雲"等の適当な名前を付けて売ろうとする。ヤクザにまで、「元手が掛からない商売だな」とバカにされる。何より夕方になって店仕舞いする時の息子との会話が凄い。「あの石あのままで盗られないの」と尋ねる息子に、「うん盗む奴なんかいないさ」と答える。ここまで己を捨てられるものか。女房に罵言を浴びせれる場面の構図も巧い。女房を後ろ向きに描いているのだ。それは愛想尽かしの表現でもあるし、女房の本音をぼかす役割も果たしている。女房は心の奥で主人公の漫画を信じているのだ。そして、無為な生活を送ってはいるが、主人公も自身の漫画を信じている。それなのに「無為の人」でしかいられない主人公。そして、見る「夢」は"石屋"、"骨董屋"、"カメラ修理屋"、"古本屋"が精一杯。この独特の世界に引き込まれる怖さを感じながらも不思議な共感を覚える。
舞台は下町から多摩川沿いに渡るが、その時代の雰囲気を醸し出す木目細かい描画にも感心する。そして、全編を見渡すと意外と性描写が多い事にも気付く。無為な生活にも性ありと言う事か。淡々とした描写で人生の一断面を切り取った諦観に溢れた秀作。
解放感のようなもの・・・。
★★★★★
「無能の人」の中にこんな場面があります。家族で旅行した際に虚無僧と出会います。お風呂で「虚無僧って虚無の僧のこと」と尋ねる妻に、「一種の無用者、高度資本主義社会に機能しない無用の存在ってわけだ」と夫が答えますと、妻が「役立たずの無能の人なのね、あんたみたじゃない」と言います。作者の独特の世界には、挫折のもつ甘酸っぱさみたいなものを感じてしまいます。それは、高度に発達した社会に住み、経済的な繁栄を求めて蟻のように生活している現代人にとって、ここに出てくる人たちは、何とも無能の人ばかりなのですが、時間にも金銭にも世間体にも縛られることなく生きる人の姿に解放感のようなものを感じてしまいます。ふっと息が抜けるような、そんな感じを受けるのです。文庫で読めるようになって嬉しい限りです。