70年反安保闘争敗北の紅い花
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私たちは1970年2月約1年の拘留生活から保釈され娑婆に出た。東京拘置所(東池袋。現サンシャインビル)の門を出たが誰も迎えに来ず南池袋の下宿まで歩いて帰った。タバコ屋でハイライトを買って1年ぶりに吸ったが苦かった。下宿で荷物を下ろし都電で早稲田に行った。早大文学部自治会室に顔を出し仲間に挨拶したが娑婆はやたら明るかった。独居房の電気が暗かったからだろう。1年ぶりに見る女性はまぶしかった。私は20歳から21歳まで
拘留され禁欲を余儀なくされたから。激闘の1969年は敗北に終わりなんとなく気が抜けた雰囲気。そんなとき誰かがつげ義春の「紅い花」を貸してくれた。初潮を迎えた少女の鮮血が川の流れで「紅い花」(山椿か?)に変転する鮮烈なイメージは眩暈を覚えるほど衝撃を受けた。今でも忘れがたい。
手軽に買えるつげ作品集
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つげ義春の旅物の名作群が手頃な値段で読めるので、とてもお買い得。欲を言えば、もっと大判で読めた方が望ましいが、この値段ではそれはないものねだりだろう、個人的にはタイトルの”紅い花”の叙情的な雰囲気が堪らなくよいと思う。
紅い花・・・穢れ無きものとして
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「南瓜や茄子を見たかえ。大きい実がなっているが、あれは、花が咲くで実が出来るのやで。花が咲かずに実のなるものは、一つもありゃせんで・・・そこで、よう思案してみいや。女は不浄やと、世上で云うけれども、何も、不浄なことはありゃせんで。男も女も、寸分違わぬ神の子や。女というものは、子を宿さにゃならん、一つの骨折りがあるで・・・
女の月のものはな・・・花やで
花がのうて実がのろうか。よう悟ってみいや。南瓜でも、大きな花が散れば、それぎりのものやで。無駄花というものは、何にでもあるけれどな。花無しに実ののるという事はないで。よう思案してみいや。何も不浄やないで・・・・中山みき」
表題作は随分と印象深いものでした。
ゲンセンカン主人など前衛的な作品が注目される傾向にありますが、本作に含まれる旅物はとても素晴らしく読んで得した気分になります。
紅い花のころ
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「お客さん、寄っていきなせえ」とおかっぱ頭に着物姿の少女が、釣り人の男に声をかける。男は、どこかこの辺にいい釣場はないかと彼女に聞く。
「私は知りません。われシンデンのマサジに会わなんだか」と少女は答える。
やがて、わたしたちはこの少女の名前が、キクチサヨコだと軍隊の帽子を被ったシンデンのマサジという少年の
口から知ることになる。
つげ義春の名作マンガ『紅い花』である。
私はその頃、東松原にある珈琲屋でつげ義春のマンガばかりを読みふけっていた。浪人をしていた74年の話だ。
というのも、同郷の友人がこの東松原に住んでいて、彼は親戚の家に間借りしていたので、彼と落ち合う時はいつも
この店と決まっていて、彼はいつも一時間以上かならず遅刻してくるので、私は中に置かれていたつげ義春のマンガの
ほとんどを、ここでじゅうぶんに読むことができたのである。
いまでは、この珈琲屋の場所も名前もすっかり忘れてしまったが、となりに明大前という駅があり、暗めの店内は
当時の学生気分を感じさせた。
私は、何年かに一度どうもつげ義春をむしょうに読んでみたいという気持ちにおそわれる。つげのマンガとはなぜか
そのような魅力を持っていて、私以外にも、多くの人たちがそうした思いを抱えているような気がする。
いま読み返してみても、キクチサヨコとシンデンのマサジのどこの方言ともしれないユニークな言葉のやりとりや、
つげ作品の醍醐味、絶妙な風景描写のリリシズムにドキッとさせられる。
なぜわたしたちは、ときどき思いだしたようにつげ義春の作品世界に惹かれてしまうのだろうか?
表題作『紅い花』を含むつげ義春の作品集を読み直し、その余韻に浸りながら、あとがきに代わる糸井重里のエッセイ
『無力を感じる力』を読んで、はたと思い当たったのだ。
糸井は冒頭に「“お前が思っているほど、お前はたいしたやつじゃない”」と振ったうえで、この言葉の意味をたぐって
いく。
すこし長いが引用する。
「(前略)いまあらためてつげ義春を読むなどということは、もしかすると、幸福のためにはしてはならないことなの
かもしれない。
自分を“いっぱしのなにか”だと思っている若者や、仲間うちではダントツの才能を誇っている誰かが、つげ義春一発で
バタバタ倒れていくようすが目に見えるようである。
倒れてほしいのだ。バタバタと倒れて、そして起きあがってくる姿を、私は見たいのである。ちょうどいい幸福、軽い
名誉、弱々しい敬意やほどほどの嫉妬の視線などを、みんな犬にでもくれてやって、“とぼとぼ”とひとりで歩きはじめて
くれることを、昔の若者である私は願っているのである。
誰よりも、つげ義春を動かし、彼にここに収録されているような密度の濃い作品を書かせた理由こそ、“お前が思って
いるほど、お前はたいしたやつじゃない”というコトバだったのだろうから、世界はまったく皮肉にできていて愉快な
ものだ。」
ほんとうに、つげ作品が好きでしようがないに違いない糸井重里の、これからの若い読者と当時の読者へのエールにも
思えるこの冴えた文章に、私はしばらく、つげのマンガの最後のコマに押し寄せる静寂のように、唸ってしまった
のである。
わ、レヴュワーの皆さん、ガロ仲間かい
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私的には紅い花がベスト。同級生の女の子の方が一般的にちょっとマセてて、
男の子の方が気後れしている感じを冷静に映像化。その繊細さに衝撃を受ける。
チョッと半身でこちらを見返す瞳の涼やかなこと。美しい。
海辺の叙景は秀作。ガロのもっともガロらしいセンス。押し殺したように控えめで、
ピュアな人々に注がれる作者の愛情。
李さん一家がいい。普通に考えると非常にあつかましい夫婦なんだけど、悪びれる
素振りなく、飄々とすまして2階の窓からこっちを見ている姿に、寛容を覚える。
いわゆる温泉一人旅物に見られるつげの情感:土着的な欲情、わずかな金銭に対する
執着、生命の不安、といった陰鬱がどの話にもベースとして横たわっている。
高度経済成長やら合理一辺倒やらに乗り遅れた焦燥と諦観が恥じることなく曝け出され、
その潔さに読者は安堵する。
そういや、ガロの青林堂の社長、どうしてるんだかなあ?