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エチオピア戦争

価格: ¥0
カテゴリ: Kindle版
ブランド: 六角堂出版
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第二次世界大戦の勃発から四年前の1935年10月、アフリカ東部の独立国エチオピアを舞台に、まったく異なる二つの軍隊が激突する戦争が発生した。第二次エチオピア戦争(英語では第二次イタリア=アビシニア戦争)である。

この戦争における一方の主役は、当時のヨーロッパでは先進的と考えられていた政治形態《ファシズム体制》で勃興の途上にあり、国際的に注目を集めていたイタリアの指導者ベニート・ムッソリーニだった。もう一方の主役は、当時のアフリカ大陸で数少ない独立国・エチオピア帝国の皇帝ハイレ・セラシェ一世だったが、当時の国際社会はイタリアの侵略を受けたエチオピアに冷淡で、第二次大戦ではファシズム陣営と対決することになる英仏両国も、この時にはどちらかといえばイタリアに味方するような態度をとり続けた。

イタリア軍は第二次エチオピア戦争において、毒ガス兵器の投入や都市部への無差別爆撃など、新たな時代の戦争の冷酷な様相を物語るような軍事行動を繰り返した。しかし、第一次世界大戦の反省から、国家間の対立を武力紛争ではなく話し合いで解決するために設立されたはずの国際連盟は、何ら有効な手立てを打つことができず、一九三一年の満洲事変に続き、またしても彼らの能力的な限界を露呈するだけに終わってしまう。

それでは、イタリアはなぜ二度にわたってアフリカ唯一の独立国エチオピアと戦争を行ったのか。エチオピア軍は、どんな編制と装備でイタリア軍に立ち向かい、個々の戦場では両軍がいかなる戦いを繰り広げたのか。そして、第二次エチオピア戦争の結末は、その後のヨーロッパ情勢にどのような影響を及ぼしたのだろうか。

本書は、ヨーロッパが第二次大戦の戦雲を予感しつつあった1930年代中盤に、アフリカで発生したイタリアによるエチオピア侵略戦争の顛末を、わかりやすく解説した記事です。2012年11月、学研パブリッシングの雑誌『歴史群像』第116号(2012年12月号)の記事として、B5判11ページで発表されました。第二次エチオピア戦争でなく、その遠因となった第一次エチオピア戦争(1896年)の背景についても解説しています。

国土の統一に時間を費やしたイタリアは、19世紀に本格化した植民地獲得競争では他の列強から完全に出遅れる形となり、1870年に統一を果たした彼らがようやく態勢を整えて世界に船出した頃には、有望な植民地は全て他の大国によって押さえられていました。しかし、1929年の世界恐慌を境にイタリアの国内経済が悪化し、失業率が急激に高まり始めると、イタリア国民の間では、海外植民地の獲得を望む声が沸き起こります。そして、イタリアが現実的に獲得可能な唯一の植民地候補として、エチオピアに人々の関心が集まると、当初は「国際協調派」でエチオピアとの関係も良好に保っていたムッソリーニも、国内世論に迎合する形でエチオピアへの敵対的姿勢へと転じ、エチオピア皇帝ハイレ・セラシェを「暴君」と呼んで声高に批判する演説を繰り返すようになりました。

言い換えれば、ムッソリーニ個人の領土的野心ではなく、当時のイタリアが置かれていた政治的・経済的な袋小路の状況が、第二次エチオピア戦争の発端でした。そして、第二次エチオピア戦争は、国際連盟の存在意義を限りなくゼロに近いものに低下させ、ムッソリーニを「国際協調」から「ナチス・ドイツとの枢軸同盟」へと向かわせる重要な転機となったのです。


《目次(見出しリスト)》

新時代の戦争の様相を予告した出来事

《エチオピアとイタリアの因縁》
「アフリカ最古の王国」エチオピア
イタリアの屈辱・第一次エチオピア戦争
ムッソリーニの躍進とファシズム体制の成立

《再び戦火に見舞われたエチオピア》
新皇帝ハイレ・セラシェとエチオピア軍
国際連盟と英仏両国の及び腰
イタリア軍のエチオピア侵攻開始

《手段を選ばぬイタリア軍の戦争遂行》
エチオピア軍の反撃とイタリア軍の毒ガス兵器
アジスアベバの陥落とエチオピアの敗北
エチオピア戦争がもたらしたもの