フォークランド紛争
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南米大陸最南端の岬ケープホーンから、約770キロ北東の南大西洋上に浮かぶ小さな島々・フォークランド諸島。19世紀の中頃以来、長らくイギリスの直轄植民地としての管理下に置かれてきたこの諸島は、東西二つのフォークランド島を主島とし、南ジョージア島、南サンドイッチ諸島など広い洋上に散らばる計200の小島によって構成されている。
1982年4月に、この島々の領有権を巡るイギリスとアルゼンチンの大規模な武力紛争が開始されると、フォークランドの名は世界中の新聞で一面を飾ることになる。しかし、新聞やテレビを通じて紛争の進展がこと細かに報道され、具体的な戦いの様相が明らかになった後でも、人々の心に生じた疑問が解消されることはなかった。
列強が領土獲得に血道を注いでいた帝国主義の時代ならばともかく、人家もまばらな辺境の小島を取り合うために、イギリスやアルゼンチンといった立派な国が、今この時代に、あれほどまでに激しい戦争を繰り広げる必要があったのだろうか?
この紛争が勃発したきっかけは、イギリスの実効支配下にあったフォークランド諸島に、アルゼンチン側が兵力を上陸させ、一時的に同地の支配権を「奪還」したことにあった。当時のアルゼンチン大統領レオポルド・ガルチエリは、国内での反政府運動の高まりで政権崩壊の危機に立たされており、自分に向けられた国民の不満を逸らすための「外敵」を必要としていた。
つまり、アルゼンチンがこの紛争を引き起こした背景には、長年未解決だった領土問題を利用して国民の民族意識を煽り、「政府と国民の結束」というガルチエリ政権にとって好都合なストーリーを演出し、政府に対する国民の敵意を「外敵」に振り向けようという、政治的な思惑が存在していたのである。
一方、国の安全保障問題を研究する各国の軍事専門家にとっては、この紛争は反省と教訓の宝庫でもあった。73日間に及ぶ陸海空での激戦がもたらした数々の結果は、それまで信じられてきた理論の欠点と、近代兵器の意外な脆弱さ、そして伝統的な軍事技術の時代を越えた有効性を立証したのである。
本書は、1982年に南大西洋で発生した、アルゼンチンとイギリスによる領土紛争の背景と顛末を、コンパクトにまとめた記事です。2000年10月、学研パブリッシングの雑誌『歴史群像』第44号(2000年秋・冬号)の記事として、B5判15ページで発表されました。現在の東アジア情勢とも類似点の多い、この熾烈な領土紛争についての理解を深める一助となれば幸いです。
《目次(見出しリスト)》
争奪の対象となった南大西洋の小島
《フォークランド紛争をめぐる背景》
フォークランドかマルビナスか
アルゼンチン国内での民族主義の高まり
武力衝突へ
《フォークランド紛争の勃発》
アルゼンチン軍の東フォークランド島上陸
「鉄の女」サッチャーの対応
《南大西洋上の海空戦》
イギリスによる洋上封鎖宣言
ヘネラル・ベルグラーノとシェフィールドの撃沈
《東フォークランド島攻防戦》
イギリス軍海兵隊の上陸開始
両軍の陸上戦力
ポート・ダーウィン/グース・グリーンの激戦
《紛争の終結と波紋》
ポート・スタンリー陥落と停戦合意
紛争の教訓と後遺症